「安倍晋三回顧録」を読む

購入したのは去年で、もう数か月前から積読になったままだったのを、ようやく繙いた。

読めると思ったのは、大まかに次の2つの視点を「戦略」の柱にできる、と思いついたからだ。

1「今」に直接つながる政治社会史、およびその最重要分析対象の素材として

2コロナ禍の「自分史」のサブテキストの1冊として

 

安倍さんには悪いのだが、「死んで良かった、殺されて当然だ」とはもちろん思わないものの、彼の死後、重石のようにかかっていた政治・社会のつかえが取れ、強い解放感を感じたのを認めなくてはならない。

彼が権威主義的手法を政官界やメディアに対して強力に用いてきたのは事実だからだ。

 

他方で、彼の政治家としての手腕と能力、築いてきた実績も無論認めないわけにはいかない。その部分は、アベを全否定しようとする所謂「アベガ―」とは異なる点だ。アンビバレンスな感情と認識に支配された、「敬憎相半ばする」感情と認識、といったところだろう。

安倍の一方的な崇拝者・信奉者やファンも少なくないだろうが、自分のようなアンビバレントな感覚で眺めていた人もそれなりにいたのではないだろうか。

 

「愛憎」ではなく、「敬憎」だったのは、彼の能力や実績への「リスペクト(尊敬)」はあっても、彼の人間性を「愛する」気にはなれなかったからだ。

無論、それ(安倍の性格・キャラクター)のファンが少なからずいたことや、人気の根源だったことは理解している。

しかし、自分の場合は、その人気を、選挙や、権威主義的手法の道具に巧みに活用しようとしていたことへの「憎悪」のほうが強かったことを認めざるを得ない。

またその憎悪は、アベ単体というより、アベ信奉者たる「事大主義者・権威主義者の日本人」に向けられたもので、アベというのはその象徴・神輿に過ぎない面もまたある。

 

ここまで見てきていただいて気づくかもしれないが、安倍に対しては「安倍さん」「アベ」「安倍」と、筆者の表記が分かれている。

これは「表記ゆれ」しているというのでなく、筆者内部のアンビバレンスを表現区分したものだ。

「政治家として」リスペクトを表明したい場合を「安倍さん」、「アベガ―」同様、安倍やその手法への蔑視を反映させたい場合を「アベ」、いずれでもないニュートラルな状況では「安倍」と表している。

 

この記事では、安倍の全解剖をしよう、というのではない。

初読における所感と、今後の分析の射程感を整理したい、というのが主な目的となる。

 

安倍狙撃事件(2022年7月)から約1年半が経過した。

「安倍の死」は、政治・社会面において、様々な意味を持った。

また、まだこれから、その死の意味合いは、まだ明らかになってない別の側面やジャンルで見えてくる部分もあるだろう。

 

昔から「棺蓋いて事定まる」というが、安倍の場合はその真逆だった。

国葬の是非、旧統一教会問題、そして今回の自民裏金問題と次から次へと出てくる出てくる…笑

自分はこれを、「死せる晋三、行ける岸田を走らす」と揶揄している。笑

アベというのが、強固な政権に見えて、いかに歪んだ基盤の上に立っていたかという証だろう。

岸田首相自身は、それなりに自分としてやりたいことがある筈だが、アベの死後の尻ぬぐいに奔走せねばならず、なおかつ今回の騒動があってもなお、(旧)安倍派の数のグリップが利いていて、うまく身動きが取れない、といった現状だろう。

 

随分前置きが長くなってしまったが、この前段は、「前提」として必要な部分でもあった。

本書の感想に入ると、半端なく面白い。

 

聞き手・構成・監修は、いずれも読売新聞関係者(橋本五郎・尾山宏・北村滋)。

安倍生前にこのインタビューを行っていたことには、感謝と賞賛しかない。

読売は翼賛新聞というほどでもないが、「安倍の応援団」だったには違いない。

それだけに、質問の攻めがぬるいと感じる部分も少なくないが、ところどころ鋭く読み応えのある部分もある。

 

感じるのは、安倍の頭の良さである。憲政史上最長の政権を保持しただけのことはある。

しかしそのスマートさというのは、論理とか博覧強記ではなく、「行き届いた人間理解」というべきものだ。

話が分かりやすく、またそれ故に良くも悪くも信頼感が持てる。

「悪くも」というのは、早い話が「単純」で、ところどころ(彼自身の牽強付会も含めて)、しかも重要な部分で論理の飛躍とか、強引さや性急さがみられるからだ。

(ただ、この部分はトランプなどのキャラクターや語り口にも似た部分があるのではないかと思える)

また、「3世議員」らしい育ちの良さと同時に、官僚や官僚社会の発想との隔絶もまた感じる。

 

自分が安倍を、政治社会史分析の最重要素材として選んだのには、様々な理由がある。

それについては、今後追々整理していこうと思うが、本記事では、そのさらに最重要の要素にのみ、触れておきたい。

 

即ち、安倍の権威主義的手法と、「政治主導」との関係についてである。

それらは、「立憲主義」や「法治主義」の根幹と関わる部分でもあった。

(前回の記事ではドキュメンタリー映画でシールズに関連しても少し触れた)

 

結論から言うと、自分は、安倍の肩を持つわけではないが、憲法学者とか伝統的な官僚や官僚社会の見方とも、少々別個の見方をしている(またはしようとしている)。

安倍の手法が「立憲主義」とか、それまでに積み重ねた法解釈やその手続きの積み重ねを踏み越えるものだったのは事実だ。

だが、その背景には一つの重要な「問題提起」が孕まれていなかっただろうか、と見ているのである。

 

安倍の側にも「政治主導」という「大義」があった。

問題は、それと「立憲主義」「法治主義」との関係性なのだ。

安倍が画期的だったのは、未曽有の「人事により、官僚と官僚社会の頭を押さえた」政権だったということだ。

歪んだ強権的な形であれ、「政治主導」を実現して見せた。

そこまで圧倒的な「政治主導」の政権というのは、それこそが「憲政史上初」なのである。

自分が分析にかけたいのは、その部分なのだ。

 

自分が立っているのは、政治学でも法学でも、また歴史学でもない、哲学の立場だ。

「政治」や「法」はどうあるべきなのか、ということを「原理的に」考えようとしている。

「政治」も「法」も、「政治家」のものでも「官僚」のものでも、また「法学者」のものでもない。「民」のものたるべきだ、というのが、その出発点となる。

(今の実定法やその体系として、「日本国憲法」や理論・解釈はどうなのか、というのが、いわば憲法学者や官僚らの視座ということになる)

だから、自分は必ずしも、憲法学者や伝統官僚の唱える「立憲主義」を「是」とはしない。

 

重要な部分なのだが、憲法学者や伝統官僚は、(3世議員の安倍や、2世・3世で構成される自民党とはまた別個の)「法エスタブリッシュメント集団」に過ぎない。

彼らの法解釈は、彼ら自身やその社会の保守・護持を目的とするものでもあるのだ。

 

片方で、安倍の手法もまた一方的に肯定する訳ではないが、安倍が彼ら「法エスタブリッシュメント」に強硬な手法で対した背景には、重要な問題性や批判性が孕まれていた可能性はないか、と見ている訳だ。

これは実は、菅政権の学術会議弾圧にも、ロジックや対象陣容は変わるがほぼ同じ構図が存在している。

(それもいずれ分析にかけたいと思っている)

安倍-菅の手法には、「反知性主義」的手法「ではない」部分(少なくともその可能性)が含まれている、と捉えているのである。

問題は、その適切な「受皿」、分析の枠組みがなければ、安倍崇拝者たちと同じ、非論理的・狂信的な「事大主義者・権威主義者」に陥ってしまう。

 

アベには危うい部分があるが、それもまた魅力であり面白さでもある(またその危うさ故に自己の破滅をも招いたとも言えるだろう)。

冒頭にも触れた通り、「アベの死」ゆえに、ようやくその存在を、重苦しさから突き放して「客観的に」捉えることが出来るようになった。

「蔑視」と同時に、「リスペクト」もある。

そうでなければ、こうして分析にかけたりはしないし出来ない。

ここで行う政治社会分析は、自分なりの安倍への追悼の意も込められているのである。